果実

創作物です。横スライドで横にスクロールします。

   果実

 「迷ったか・・・」

山道の谷側に寄り過ぎた。ぬかるみの水たま

りなど気にせず山側を進むべきだった。結構

落ちた。落ちたところから這い上がるには斜

面が急すぎて迂回した。地図ではこっちの方

の斜面から登れると思ったんだが、方角を間

違えたか。コンパスを確認していたが、歩く

うちに地形に惑わされたか。そういえば夜の

街中で、斜めに交差する道で迷わされた経験

がある。あの時は本当に方角を失った。「方

角を失う」を文字通り実感させられた。どう

しようもなくなり、見つけたコンビニで店員

さんに、

「ここはどこですか?」

と聞いた。店員さんは怪訝な顔をしていた。

その表情をみて初めて自分が間抜けな質問を

したことに気が付いて、

「駅にはどう行けばいいですか?」

と聞きなおした覚えがある。こんな山奥では

コンビニを探すわけにもいかない。落ちたあ

たりに戻るにも、迷うとは思ってなかったの

で、全くまわりを気にしていなかった。とに

かくここからはコンパスを確認する頻度を増

やして、まわりの様子をよく見ておこう。方

向を変えるときは何かで印をつけておこう。

幸い天気もいいので開けたところに出れば、

現在地を確認できるかもしれない。確認でき

なくても、空からの救助を期待できる。

 あたりが薄暗くなってきた。樹木の葉で空

も覗き見る程度しか見えない。星を頼りにで

きそうにない。暗く成りきる前に今夜の休息

場所を見つけよう。

 樹々の向こうが開けている。空が見えるか

もしれない。それにしてもこの匂いは何だろ

う。嗅いだ記憶がある。お米を炊いた時のよ

うな、パンを焼いてるような。たまらなくい

い匂いだ。空腹を刺激してくる。こんな時で

も腹は減る。栄養が足りていても、胃の中に

物がなくなれば腹が減ったと感じるらしい。

確かに何かに集中していると空腹感を忘れる

こともある。いったん忘れるとしばらくは思

い出さない。そして集中が切れた時にふと空

腹感を思い出す。その時思い出す空腹感は強

度を増している。

 星空が見える。少し安心したせいか刺激さ

れた空腹が暴れだした。それにしてもここは

果樹園だろうか。2メートルくらいの木が数

十本生えている。どの木にもイチジクのよう

な実がなっている。葉もイチジクのそれに似

ている。しかし、周りに囲いも何もない。道

らしきものもない。樹々の間隔もバラバラだ。

野生のようだ。それにしてもさっきの匂いは

この樹々の果実から香っているようだ。食べ

られるのだろうか。簡単に捥ぎ取れる。実の

表面は弾力がある。皮は薄そうだ。剥かずに

食べられそうだ。さすがにいきなり齧るのは

危険すぎる。毒性があっても致死量に至らな

ければ大丈夫だろう。まず、ちょっと皮をめ

くって舐めてみるか。皮をめくったところが

マンゴーのようなオレンジ色をしている。美

しい色だ。毒々しさはない。さらに食欲をそ

そられる。しかし、まず舐めるだけにしてお

こう。舐めてみるとほのかにあまい。嫌な味

はしない。食べられそうだ。我慢できない。

齧ってみよう。簡単に歯が立つ。果汁はそん

なに多くなさそうだ。食感はアボガドみたい

に、ちょっとねっとりした感じだ。種がない。

不思議だ。どうやって繁殖しているのだろう。

竹のように地下茎で増えているのだろうか。

そんなことはどうだっていい。食欲という暴

君の支配がはじまった。

 どれほど食べただろう。皮ごと食べられる

し、種もないので、食べた量がかわからない。

満腹感を結構通り越している。歩き廻ったせ

いか流石に眠い。

 眠ってしまったようだ。

 寒くなくてよかった。

 それにしてもこの体の重さはなんだろう。

 毒性があったのだろうか。

 倦怠感とは違う。

 手足の痺れはない。

 動かす気力が湧かない。

 動かせる気がしない。

 考えるのが面倒になってきた。

 意識ははっきりしている。

 風の音。陽の光。心地いい。

 いつしか人の気配が消え、そこには周りの

樹々と同じような木が新たに加わっていた。